いもいもなにいも

おいものなんでもない日

アリアドネの糸

※映画を観たことについての文章ですが当の映画のストーリーについてはほとんど触れません。

 

劇場で「インセプション」(2010年公開)を観た。ノーラン監督の新作「TENET」の公開前キャンペーンの一環のようだ。正直新作のことは何も知らず、TwitterのTLに流れてきた「インセプションを劇場でIMAX/4DXで公開!」の報に食いついた。てっきり何週間かやってくれるかと思っていたが、さすがに再上映なので一週間だけらしい。行くチャンスがこの土日か、平日の深夜しかなかった。

少し前に劇場での換気実験の動画を見ていたので、道中はともかく鑑賞中の感染リスクがそう高いわけではないと判断し、自分が行くのはすぐに決めた。

ずっと劇場で観たかったのだ。初めてフルで観るときは、劇場または満足できる大きさのスクリーンにプロジェクターで投影するくらいの没入感が得られる環境がよかった。

 

この映画に出会ったのは大学の授業で、教授がところどころ早送りしながらの鑑賞だった。それでもずっと気になっていた。「意識/世界の入れ子構造」という題材がそもそも性癖なので。

当時こんなに惹きつけられることを全く知らないまま、最初のシーンを眺めながら(外人の思う日本人の金持ちってなんでこうエセ中国感がすごいんだろう)とか、(田中芳樹創竜伝」の老人じゃん)とか、しょうもないことを考えていたのを覚えている。そのあと何度かの早送りを経て、私はすっかり虜になる。そして、この映画がすでに数年前のものであることを思い出して絶望する。自分の望む形での鑑賞が叶わないことに。

筋金入りに厄介な性格をしているのでそこで諦めてレンタルビデオ屋に行くこともせず、ネット上のネタバレ解説を漁った。(あまり人に理解されることがないが、私はどんでん返しがある系のストーリーもネタバレが余裕、むしろその後に細部を見るのが好きな人間である)

なので、ラストシーンのことも知っていた。

全シーンをこの目で観てから"どう"だったのかを自分で判じたかったが、それよりも「この作品を観るなら"浴びたい"」という欲の方が勝った。つまり、「それが叶わないので、観ない」という選択をした。なんでそんなに固執するのか自分でも意味がわからないけど、とにかく完全な体験として摂取しないと味わい尽くせない作品だ、もったいない、と思ったのだ。

そのあと体調をアレしたりいろいろあって、数ある「気になってたけど観ないままでいる映画」のひとつにさえなっていた。

 

が、今回の報である。通勤の電車待ちの時間に飛び込んできたツイートに頬をはたかれたような気分だった。

 

自分が行くのはもう決めた(チープだが、運命的な感動をしていた)。ひとりで映画を観るのに抵抗はない。残業明けのレイトショーでアニメ映画を見るときも、研修終わりの都心で実写版美女と野獣を見るときも、ひとりで満足できた。しかも今はご時世がご時世なうえ、10年前の映画の再上映なので、「アマプラで買えばいいじゃん」と言われればそれでおしまいだ。私が7年渇望した"体験"は、他人に何も関係がない。それで他人をリスクに晒して、「つまんね」と思わせるなんて最悪だ。

でも、この人がもしこの作品を見て、その頭の回転の速さでもって"あのラストシーン"に唸って、なんらかの解釈を聞かせてくれたら最高じゃないか?という人がひとりいた。私はこの人の目と心でみる世界に並々ならぬ興味がある。私ほど大波の感情に揺さぶられることはけしてないが、針の落ちる音のような機微を感じ取ることのある人。その人がこの複雑な構造と感情の迷宮をどう歩くのか、知りたい。

少し躊躇したが、興味が勝った。

今までのパターンからして知らない映画の再上映なんて断られるだろうとも思っていたが、これはほんとうに予想外で、「明日の昼の回ね」ということに決まった。フットワークの鬼。

結果的に、その人は2020年の今まで全く知らずにいた映画のラストシーンについて、7年間薄く囚われ続けていた厄介オタク気質の私と違う角度の解釈をもち、お互いの根拠をあれこれ唸りながら語ることになる。そして結論は出ない。出ないというより、「(我々が観たものとその記憶からするに)どちらの解釈も結論できるように作られていない」という地点に落ち着いた。

それがどんなに気持ちのいいものだったか、語る言葉が足りない。上映後、知らず膝の上で指を祈るように組んで興奮しきったまま(感染対策のために)ひと席挟んだ隣の彼の方を見、見開いた目が合った時の泡立つようなしびれを忘れない。

(この人にも刺さった)と思った。

でも不安だったので、歩きながらじわじわと確認した。ほんとにちゃんと刺さっていた。めちゃくちゃ安心した。ラストシーンの解釈が違ったことさえ、これだよこれ!と歓喜した。

かくして、唐突に降ってきた因縁が、極限まで"体験"を制限されたこの夏の、間違いなくベストに連なる一日をもたらしたのであった。同じ物語を追うのにも、体験の同時共有ってやっぱり段違いだ。

 

ストーリーに微塵も触れずに二千字も書く自分にまあまあ引いています。ここにストーリーの感想や考察記事を書くとしたら今度こそ円盤を入手してもっとしっかり検証したい。

 

かと言って「だからみなさん映画に行こう!」とは言えない状況です。

私は自分なりの「会える人」の基準が一応あって、その都度悩んで生活しています。今すごくエゴの扱いが大変な時世だと思う。正しいかはたぶんずっとわからない。間違っている可能性さえある。

でも今回のこの体験そのもののことを後悔はしないと思うし、鮮明なうちに書き残しておきたかった。

そういうものを手繰り寄せて、迷宮を歩くしかない。