いもいもなにいも

おいものなんでもない日

王様の耳はロバの耳

読書(漫画を含む)とゲーム(サウンドノベルを含む)と実況動画視聴だけで構成された連休が3日過ぎようとしている。

 

どれも外に出なくて済む、良い趣味だ。だが全て目と集中力を遣う。体が全然疲れていないのに眠くなって寝ると、今度は頭痛が起きる。寝過ぎ頭痛はカフェインが効く。濃い紅茶を淹れて飲むと、眠れなくなる。そしてまた、何かを読む。あるいは聞く。胸焼けし始めても諦めきれないスイーツビュッフェのように、飲みこみ続ける。制限時間があると腹八分目の残り二分が惜しくなる。連休も同じようなものらしい。

 

職場から連絡のこない、正真正銘自由の4連休なんかちょっと想像を絶する。ゴールデンウィークにも同じことを言っていましたね。

 

なんとなくずっと、このあたりのお休みにはもう世界が一段落して、マスクだけしていたらどこにでも行けるように思っていた。そうであれと願って信じ込んでいた。遠出はまだ無理でも、ずっと会えなかった人たちに近場で会いに行ったり、海を眺めたり、そのくらいならできるはずだとほんの数週間前まで思っていた。

なんか、だめだった。

明確に禁止されてはいないからしてる人は結構いるのだろうし、本当のところ、先月までとどのくらい危険度に差があるのか、ないのか、誰もはっきりと説明してはくれない。

とにかく、重すぎる「自己責任」がしんどい。楽観と悲観の戦争に毎日巻き込まれている気分だ。どっちつかずの対策を言われるがままずるずると続けて(言われたとおりが一番楽だ、10割自分のせいになることだけは避けられる)、「症状が出なかった」日を延ばしていくだけ。この体の中にくだんのウイルスが入り込んでいなかった証明なんてまだ誰にもできない(いまある抗体検査は感染歴の証明にはまだ確実ではないそうだ)。

 

たのむからなんとかしてくれよ、と思ってしまう相手方にももうなす術がないんだろう。彼らが救おうとしている"民"の範囲に、おそらく含まれていない人がかなりいる。

というより、「今から大洪水が起きるので、方舟にのるだけのいきもののみ助かりなさい」という、概念的にはかなり使い古された神の視座っぽい。慈悲深いように見えて傲慢な、苦し紛れの奇跡。

神は人の子に何もできない。今から滅びるよと告げるだけ。

 

人並みに怖がっていたら、死にたくないの?とシンプルに尋ねられた。今までのいくつかの地点の私ならどうか知らないが、今の私は死にたくない。今まででいちばん「持っている」「奪われていない」のに、こんなところで終わるなんてもったいない。

たとえ明日突然猛烈に死にたくなっても、わざわざ病気にかかって不確実な方法で死にたいなんて絶対に思わない。ていうか、私が死んだ後に好き勝手美辞麗句並べてありもしないうつくしい思い出に泣いて浸りそうな人たちが全員先に逝くまでは死んでたまるかと思っている。末娘で本当によかった。身体は弱いけど根性はぐねぐね曲がってながーく育っている。

痛いのも苦しいのも、自分の好きな人たちがそうなのも嫌だ。避けられる限りは避けたい。その"限り"がわからないから、こうしてうわーってなってるんだけど。

あと身もふたもないこと言うと、報じられたくない。ニュース規模でなくても、社内とかでも。運良く無症状でも簡単にゲッソリすると思う。ちょっと目立つだけでぜんぜん面識もない人から知ったふうな陰口叩かれたりするんだよこの世界。それはこの騒動に限らずですけど……。

感染そのものが怖いの8割、それに伴う他人の感情が怖いの2割でこの疫病禍を過ごしています。ぜんぶこええ。

 

7月も終わろうかというのにまだこんなビビって暮らさなきゃいけないと誰も思っていなかったんじゃないかな。今の私は「クリスマスには…」などとまた楽観的なことを考えていますが、実際は次の夏も同じような感じなのかもしれない。その頃にはもう少し慣れているのだろうか。カエルって水温徐々に上げたら気付かなくてそのまま茹だって死ぬみたいな話なかったっけ。カエルじゃなかったかも。どっちにしろ嫌なこと思い出したなあ……。

 

みごとに不安だけを吐き出す回になってしまった。まあでも元気ですよ!ごはんがうまい!

 

こだまになって街中響き渡らないように、井戸ではなくインターネットに流すのだ。