いもいもなにいも

おいものなんでもない日

あの日

 

高校1年生の終わり、期末試験の最終日、他の学年よりも早く試験が終わった放課後。音の出る部活は迷惑になるため活動を始められないので、私を含めた吹奏楽部のメンバーや、軽音部の子たち、ダンス部の子たちなどが一緒くたに空き教室に集まっていた。

机をくっつけて、ミーティングをしていた気がする。おしゃべりだったかもしれない。今からすれば、大差ない。突然ぐらぐらと揺れがやってきて、すぐにぴったりくっついていた机同士がばらばらになるほどの揺れがきた。いろんな悲鳴が起こって、根がまじめな優等生ばかりの学校だったからか、みんな習ったことのあるとおりに机の下に隠れた。その場に大人はいなかった。ほかにどうすればいいんだっけ。机の下で、近くにいたクラスメイトの男の子と目が合った。「ドアだ」とどちらが呟いたか、二人で同時に飛び出して教室の前後のドアに駆け寄った。ピシャンガタンとすごい音を立てて開閉していたスライドドアをそれぞれ押さえつける。閉まった状態で歪んだら出られなくなるからだった。廊下を見る。そこから見えるはずのエレベーターホールが見えない。防火シャッターが降りていた。こうやって降りるんだと、何故かそれだけ冷静に思った。前のドアを押さえていたクラスメイトも、同じようにシャッターを見ていた。

やがて大きな揺れがやみ、ぐちゃぐちゃになった机と椅子、顔面蒼白の少年少女たちが残された。泣き出している女の子もいた。無理もない。気丈な何人かが、ワンセグ付きの自分のガラケーで状況を確認しようとした。泣いている子を宥めたり、机を少し直したりしながら、何人かずつ寄り集まってそれを見た。詳しい映像はもう覚えていない。とにかく、ここよりもずっと揺れた場所があって、そこは東北地方だということがわかった。親しい友達が映し出された県にいるという子が、いっそう大きな声で泣き出した。何の根拠もなく、「だいじょうぶ」と繰り返してその背を撫でることしかできなかった。みんな各自のガラケーを取り出してみるも、メールも電話もきちんと繋がらなかった。

それから先生がやってきて、校内放送が入って、自分の教室に集合させられて、……その日たまたま自転車でなくバスで登校してきていた私は、朝の気まぐれひとつのために自力で帰る手段を失った。電車は止まり、ローカルバスの運行状況はお察しで、徒歩で帰るのも一人でいて余震が起きたら大変だからと止められたのだ。

そのうち、何時間か遅れて家族それぞれからのメールが届いた。何度か失敗しながら、ひとまずの安全と、帰宅できないでいる旨を伝えた。また何時間かのち、すっかり暗くなってから、姉の「車で迎えに行くよ」というメールが届いた。当時今の私よりも若い姉は(今も割とそうだが)、メンタルの事情が影響し、仕事やバイトを転々として、家にいる時間が多かった。ひとまず、学校で泊まることは避けられそうだった。会話さえまともにすることの少ない姉に頼みごとをするのは落ち着かなかったが、どうせ飛び降りるならと「比較的近くに住んでいる何人かも送ってあげられないか」と頼んだ。彼らもお家の人たちが出払っていて、このままだと帰れないからと。断れるはずもなかっただろう、姉は1時間かけて7キロ程度の道を車でやってきて、妹の友人である少年少女何人かを自宅へ送り届け、ようやく日付も変わろうかという時刻に、妹とともに近所の牛丼屋の駐車場まで辿り着いたのである(私が心から彼女を憎みきれないのは、この記憶があることが大きい)。そこでまだ帰れていないらしい両親の分も牛丼を買って、ようやく帰宅した。

そこからのことは切れ切れだ。確かリビングで、姉はソファ、私は床で寝ていた。朝になると両親が揃っていた。小学生の頃西の方に引っ越した友達から、こちらをすごく心配したメールが、何時間も遅れて届いていた。

 

次に学校へ行くまでに何日かあり、ホワイトデーにかこつけて作るつもりだった桜の風味と形のクッキーを、予定通り作って持っていった。友人たちはみな喜んで食べてくれた。自分にできる、誰かを少しでもほぐせるようなことが、他に思いつかなかった。

 

それから数ヶ月して、海の向こう、オーストラリアのある都市にホームステイに行った。昼休みに立ち寄った街のケバブスタンドのお姉さんから出身を尋ねられ、日本だと答えるやいなや「地震は大丈夫だった!?」と訊かれた。私が住んでいたところはあまり揺れなかったし、家族もみな無事だったと伝えるとほっとした様子で、「私はその時もここで働いていたの。数日前にニュージーランドでも大きな地震があったでしょ。怖かった…」と遠くを眺めた。彼女は韓国で生まれたらしい。住んでいる国の隣も、生まれ故郷の隣も大変なことになって、色んなニュースを見たらしい。

次のお客さんがやってきて、おしゃべりはそこで途切れた。その後も何度か会話をしたが、あの日の話になることはなかった。語る言葉を持たなかったのだ。

お互いに母語でなく、当事者でない。何を話しても空気は重くなってしまう。

その時のことを強く覚えているのは、海の向こうで起きたことを、心から心配してくれている人がいると肌で知ったからである。きっと彼女はもう小さな日本人のことなど忘れているだろう。それでも17歳の私には印象的だった。それだけでも、あの年にあの場所へ行けた意味がじゅうぶんあると今は思う。

 

何かをうしなった当事者でなければあの日については何も語ってはいけないような気がして、今までこうしてまとめて書くことはなかったように思う。

10年が災害や復興そのものに対する節目だなんだと言うのはあまりにデリカシーに欠け馬鹿げていると思うが、こうして筆をとる理由にはなった。また10年が過ぎてもっと褪せてしまう前に、覚えている断片だけでも残しておこうと思ったのだ。もしも誰かに聞かせることがあったとき、参照できるように。

 

あれからめっきり地震が苦手になった。今はもう、あんな風に周りを宥めてあげる余裕はないかもしれない。