いもいもなにいも

おいものなんでもない日

今生まれた星はみえない

ひさびさに実家に泊まった。まったくそんなつもりはなかったのだが。

いざ会ってみると父は思ったより元気で、しかし患部の様子がぜんぜん「無事」ではなかったので、(ここで調子に乗っていつも通りやろうとして悪化するのが私たちに共通する遺伝子……)と悟り、せめて土日の力仕事は手伝うことにした。瞬間的に力を込めるとかはそういう筋力が発達していないのでできないが、ただ重いだけのものをある程度の距離背負ったり運んだりするのは、長い一人暮らしと前職の納品さばきとかのおかげで、それなりに慣れている。

 

数年前までよりはよっぽど息がしやすくなった実家だが、やっぱり丸一日いると、ペン先から垂れるインクのような、紙で切った指先の傷のような、黒く、ヒリヒリとした、かすかなノイズに出会う。その瞬間だけ、私はむかしのように、動けず、声も出せず、固まりそうになってしまう。

今の私はたしかに、今のこの人たちを家族として、人並みに愛することはできるだろう。そう思うことが、たぶんはじめてできた。だけれど、やはり、同じ場所で生きていくことはできない。それは私に自分のえらんだ家族ができようができまいが、同じことなのだ。一日ぶんならば(あるいは、数日間ぶんならば)飲み下せるような濁り、無視できるような痛みは、20年間波のように続いて私のなにかを腐食させ、削りとった。それをなかったことにはできない。

むかしのことだとかそれくらいのことだとか、私ではない、私のことを思う誰かが口にするたび、削られた部分が発熱して疼く。そんなふうに割り切ることができるのならば、これまで私がそうしようと思わなかったとでも思うのか。その方が楽で他のすべてがスムーズで周りからみてしあわせだなんて分かりきっている。そして絶望的なのは、そういうことを言ってくる人はその人なりに、本気で私を楽にしようとしてくれているのだ。いいとか悪いとかじゃなく、単なる断絶。この断絶の埋め方を、私はいまだ知らない。

 

偶然会った幼馴染が先月結婚したことを聞いて色めきたつ母親と、その話をきいて目を丸くする父親を横目に、この間の悪さも遺伝なのだろうか……?と意識を空にとばしながら米びつに米を5キロ補充した。そこで「お前は」と水を向けてこないところは、私の両親の素晴らしいところだと思う。数年前までは言われることもあったが、のらりくらりとかわしていたらほとんど言われなくなった。私に幸せになってほしいという気持ちからなら、何が私の幸せなのか決めていいのは私だけだというのもお分かりだろう。諦めてくれているのならこちらも気が楽なのだが本当のところはわからない。誰かと生きていくことが素晴らしいことなのはわかるし憧れも大きいけれど、怒声も罵声も存在しない、笑顔でいなくてもいい静かな部屋や穏やかな寝床が確約されている毎日は、代え難い。これだけは強がりのない本音なのに、強がりに聞こえるからあまり口には出せない。負けず嫌いなのだ。

 

ふやけている部分に刺激の多い週末ではあったが、私にできる最善のことはやったし、私が無理しすぎないギリギリのところは守れたと思う。死ぬほど疲れていて、寝不足なのに目が冴えて顔の左半分が痙攣していてやばい感じがするけれど、この2週間の消耗は私個人の問題も多分に含むので、まあ、ほとんど会計外のおはなしだ。

 

元日に一緒に鎌倉に行かないかと誘われたので、ちょうどどこかへ行きたかったし、ここしばらく大変だった彼らが喜ぶのならと承諾した。翌日は推しグループの配信があると発表されたので自宅で過ごすと宣言した。それが今の置き所だ。

 

実家で目覚めた朝、枕元から「元日に子どもと一緒に日帰り旅行なんてね」「楽しみだね」という会話が聞こえてきた。声だけを認識していた瞬間は、昔こうして漏れ聞こえて来るのはいつも姉や時々私についての懸念や愚痴だったこと、子どもが聞かない方がいい話をただしく聞かなかったことにするために布団の中でしばらくタイミングをうかがっていたこと、それが毎朝憂鬱でしかたなかったことを思い出して思わず身を固くしたが、そうではない内容が脳に届いてすぐに伸びをして起き出した。リビングと寝室のあいだのとびらを開けて、開口一番「集合時間決めたら連絡して」と言うと、なんだ聞いていたのかと両親は揃って笑い出した。

なかったことにはできないけれど、これからをマシにしていくことは私にだってできるだろう。