いもいもなにいも

おいものなんでもない日

私の歌姫

通勤時間というものがほとんどなくなってから一年ほどになる。

私は移動中ずっと、というよりも起きている間ずっと何かしら「聞いて」いないと落ち着かない。それは音楽だったり、好きな番組のアーカイブだったり、実況動画だったりする。

それが外を移動することがめっきり減ったおかげで、音楽を聴く時間も減った。在宅中も動画をずっと流しっぱなしにしているが、音楽は単にコスパが悪い(一曲あたり長くて5分、アルバム1枚あたり一時間しかもたないので、毎日10時間以上流しているといくらなんでも飽きる)のだった。

2時間くらいまでの無の時間、結構機能していたんだなと思う。こうなってしまって在宅勤務の体調に及ぼすメリットを享受した以上、通勤はいらないと思うけど。

 

人の話し声とかがないと集中できない、落ち着かない人もいるみたいだが、そういうのとも違う。実家が各種ヒステリー黒ひげ危機一発みたいな環境だったので、そのへんの人が普通に話しているくらいだったらむしろ全く気にせず作業も仕事もできるが。(ふつうの人たちはいきなり怒ったり、怒鳴ったり、物を投げたり、軋むほど音を立ててドアを閉めたりしない。その人たちも家ではどうだか知らないが。)

音楽や番組や実況動画は、こちらに話しかけてはこないし、私に関係する話をしたりもしない。常に一定以上「関係ない」ところにいてくれる。頭の中を激しく泳ぎ回る言葉や感情を固定することができる。

 

それでも、いざ音楽を聴こうとしたときに最も私の耳を占有するのはaikoの歌だ。これまでもずっと。20年以上私の一番であり続けている。昔、"二番目"だったのに最近のアルバムを何枚も聴かないでいるアーティストは何組もいる。aikoの歌と音楽で"情緒"の基礎が形成されたので、そりゃまあ永遠に刺さり続けるでしょうよと思う。

彼女が歌うのは一貫して恋愛についてだが、そこにある感情は普遍だ。活動20年を超え、アルバムは14枚めになったが、その中でまったく恋愛に関係しないと言える曲は「瞳」「ラジオ」くらいじゃないだろうか。だがそれも、彼女の感情がマイナスにもプラスにも、最も鮮やかに動くのが恋愛だっただけの話で、彼女がとらわれているものがあるとするならば、恋愛よりも音楽のほうだと思う。歌い方を意図的に変えてみたり、または戻してみたり、メロディをぐっと甘くしたりさっぱりさせたり、威力を調整して的の中心を射るのを楽しんでいるようにみえるのだ。

彼女の曲には、甘味を知らずに食べる砂糖の味を「それが甘みだ」と教えられるような、ノイズだらけのラジオのチューニングが突然合うような、そんな驚きと快感がある。

あまりにも印象的な歌詞を書くので歌詞ばかりが注目されがちだが、それを載せる曲、コーラス、歌声すべてがバランスをとっている。明るい曲調に痛いような悲しみが込められていることも、しっとりしたメロディに溢れんばかりの怒りが込められていることもある。途方に暮れるほどの人間味がそこに詰められている。

自我を持った人間がひとつの感情だけに支配されていられる瞬間というのはあまりない。幸せな時も寄る不安は消えず、悲しいときもどこか安らぎがあり、恐怖のさなかに興奮があるように。その組み合わせは数多ある。それを最も巧みに表現しているのが、aikoの歌であると本気で思う。

誰にも寄り添ってもらえない、誰にも寄り添ってほしくないときにも、彼女の歌がいつもそこにあった。彼女は私の友人でも恋人でもなんでもなく、私の歌を歌ってもいない、彼女の歌を歌っているだけのことだけど、それが何よりも救いになる日が何度もあった。

雛鳥の刷り込みと言われればそれまでだ。でも私にはそれが真実であり、まさしく、彼女こそが私の歌姫なのだ。

 

というのを、今週発売されたばかりのニューアルバムを聴きながら噛み締めた。この一年、世界がいろんなかたちに変化していって、いいことばかりではなくて、それでもaikoは歌い続け、変わり続けている。

彼女の歌をまたライブで聴ける日のために、この新曲たちをぴょんぴょん跳ねながら歌う姿を見るために、生き延びようと思った。