いもいもなにいも

おいものなんでもない日

どこまで行ってもせまい

 

腹が痛いのでうらみごとばかり思い出す。頭の中がごうごううるさい。

 

私は嫌な小学生だったので宮部みゆき西尾維新田中芳樹を交互に読むような12歳だった。中学に上がると有川浩とか角田光代とかわりと喉越しのいいさらりとした舌触りのものも好むようになったけど、桜庭一樹橋本紡にも出会ってしまったのでそんなに変わらなかった。

いやでもこうしてみると本好き人間(私はけして読書家ではない)の思春期としてはかなりスタンダードなラインナップじゃないか?作家読みしてたのがそのあたりなだけで手当たり次第読んだけど。

本を読んでさえいれば大人は何も文句を言わなかった。本はほかのおもちゃと違って、家に帰ったらいきなりゴミ箱にぶち込まれていたりしない。私以外の家族がキレながら物を投げまくる時も本は(タイミング悪く私が席を外したすきに投げられた本の表紙が折れて普段黙っているか泣いているだけの私が静かにブチ切れた……ということが1度だけあったので)投げられないし。ちなみにVHSの角はスネに当たると普通に穴が開きます。フローリングは傷だらけ。彼らは壁も床も窓も皿も割った。私は割れ物の処理がやたら上手くなった。一揃いの食器など、中学に上がる頃には無くなっていた。それで「暴力なんてうちにはなかった」と三人揃って言える感性がすごい。暴力という概念の定義から議論の必要がある。いや、まともに議論ができるようなら人に向かってものを投げたりはしないんだろうな?

13だか14だかの時の帰り道、幼なじみに「今は何の本読んでるの?」ときかれたことがある。確か読書週間だかなんかの時期だったんだろう。なんの警戒もせず素直に「今は桜庭一樹『私の男』」と答えてしまって、何が面白いんだか知らないがその日の帰り道じゅうずっと仲間うちでからかわれ、そりゃもう鬱陶しく思ったことをなぜか未だに覚えている。確かに内容もかなり陰鬱だし、セクシャルな描写がないわけではない(あってこそ、物語とタイトルが活きてくる)。でも彼女たちはそれを知らない。ただ響きが思春期の少女たちには少しばかりセンセーショナルなだけだった。それからは読んでいる本のタイトルを訊かれても適当な嘘をつくようになった。読んでいる本の中身に興味なんて無いのだから同じことだった。

そうは言っても大事な友人たちと思っていたが、その数年後彼女たちのあまりのデリカシーに欠けた発言と行動を許すことができず全員といっぺんに縁を切る羽目になる。

今になってあの日の放課後があの夜の地獄みたいな恋話(というのも恋話に失礼だと思う)にだぶる。

そういうところってなかなか気付けないものなんだな。どうして私の恋愛について(話したがらないのを友達相手に薄情だと言わんばかりにずけずけと)聞きたがって、私の父親の浮気の話(しかも当時まだけっこうホヤホヤの話題だ)を引き合いに出そうと思えるのか、未だにひとつも理解ができない。私よりずっとお育ちのよろしいはずの彼女たちの残酷さが気持ち悪くて仕方なかった。幼さは理由にはなるかもしれないが、免罪符にはならない。ていうか看板立ってる爆弾わざわざ踏みに来てそんなつもりじゃありませんでしたってそれは虫がよすぎる。

許してもらえるだろうと思われたのが許せないし、許してはいないし、今後許すこともない。

 

なんでこんなことを思い出すのか。職場でおとなたちの子どもみたいないさかいをなぜか仲裁させられたり別に優しくした覚えのない人につきまとわれたりしているからです。

大人になったらこんな悩みとは無縁になると思ってたんだけど、そんなことはなかった。

 

めちゃくちゃ遠くに行きたい。別の言葉を話したい。

気に入らない何もかもを置き去りにして。