いもいもなにいも

おいものなんでもない日

トナカイのソリを追い越して

遠くに行く計画を練っているときがいちばん心が軽い。暖かくて静かな寝床とか、美味しくて楽しい食事とか、好きなものを読んだり見たりしているときとは違う、翼の生えたような、風を受けてすこし冷たいような、そんな手触りになる。私を縛り付ける足枷はすべて私の鬱屈が作り上げたまぼろしで、いつでもこんなところから飛び出していいのだと。百万とある悩みのうちの大多数は、悲しんで憂いて嘆いているふりをした方が人間くさいからそうしていただけで、真実私の心そのものは別になんとも思っていないのだと、そうわかることさえある。

場所の力はすごい。場所は思っているよりもたくさんの割合で、私に役割を、言動を、思考を、そして性格をあたえる。誰かの家族で、友人で、恋人で、同僚である私は、多分そうやって産まれる。かけがえのない。そうだ。かけがえのない私。だけど、そうであるならば、こんなにも毎晩苦しいのは、頭上の雲が晴れないのは、種類の違うパズルの箱に放り込まれたような気分でいるのは、何かが「間違っている」からなのか?だとするならば、どうやって調和を得たらいい?

他人を変えるのは不可能だ。というより、他人が変わってくれるなどという期待をもつのは無駄と思ったほうがいい(だいたいの場合、変わっても、望まないかたちになるものだから)。ならば、これ以上無駄に苦しまないように切り落とすか、あるいは––自分で勝手にさっぱりするしかない。

 

旅なんて整ったものでなくてもいい。ただ遠くに行って、知らない道を歩いて、その場にいる誰にとっても知らない人間になって、そしてそのまま通り過ぎたい。晴れていたら楽だけど、大雨でもガイドブックやインスタグラムでは見られない姿が見れていい。乗る予定の電車が……止まらない限りは……(経験がある……)。

何年か前まではたった一日の休みでひょいとどこかへ出かけられたものだったが、その頃より少しだけまじめに貯金をしようという気になっていたり、転職して「2日かけて休息と充実を組み立てる」ことに慣れてしまったり、あとは流行り病が怖かったりしてあんまり出かけられていない。これはこれで正しいのだろうが、こころに生えたカビがぜんぜん退治できない。

 

先週は久しぶりに、友人と一泊旅行に行けて羽を伸ばせた。誰かと行く旅行はとてもとても楽しいが、タスク消化の鬼になりかけてしまうのと、終わったあとさみしいのだけ対策が必要だ。もうすこしうまく余白を持たせてあげられたらよかった、などと反省もしてしまう。楽しかったと笑ってくれたからそれでいいはずなのに。

それでも、私もとても楽しかった。やっぱり自分の目で見ないとあらわれない感情があるなあと思う瞬間もあった。一人で食べるには鮮やかすぎるごはんも。一緒に何十キロも電車に乗って何十時間も過ごしてくれる友人がいてくれてあたしゃうれしいよという気持ちになる。誰?

 

人と行く旅行でしかほぐせない土と、一人で好き勝手にあるきまわることでしか溶かせない氷とがある。土はなんとかなったから、こんどは氷をどうにかしたい。今年の年末年始は、仕事の繁忙期さえ乗り越えたら決まった休みが一週間もある。ロマンチックな予定もアットホームな予定も微塵もない。そういう習慣の思想がつよい圏だと眉を顰められそうなくらい、ひとりだ。(というか、私がそういうコミュニティをすべて避けてきているだけで日本のこの辺だってそうだろうし、私の親戚もまあそうだろう。過去のツケを盾にしているから文句言わせてないだけであり、彼らにとって輪を乱す邪悪なのはやはり私の方かもしれないが、知ったことではない)

でも、プライベートがハチャメチャだった去年にくらべたらどんなにか余裕があるだろう。こんな円安でさえなかったら、ちがう国にさえひとっとびしてしまいたいくらい。知らない言葉の渦の中、緊張しながら買ったコーヒーをちびちび啜りたい。

とんでもなく高騰している年末年始のツアー料金を眺めながら、見たい景色を探しているところです。やっぱり温泉が王道かなあ。年末年始はやってる施設に限りがあるだろうしなあ。

ああだこうだいってまごまごしてたらもう除夜の鐘が鳴るだろう。